Three Stars -スリースターズ- by AKIHIDE

 その絵には三つの星とそれを眺める女性が描かれていた。

 まだ五才くらいの頃。母の部屋に掛けてあったその絵をずっと見ていた。僕がいることに気付いた母が瞳を開け、ベッドで横になったまま言った。
「私の大好きな絵なのよ」
 微笑む母を見たのは久々だった。嬉しかったからか、僕は枕元の小さなテーブルに置いてあったメモ用紙とペンを取り、見よう見まねで絵を描いて見せた。
「まあ、とっても上手ね」
 母は身体を起こし頬を撫でてくれた。そして指で僕の髪をかき分けると
「何かあったの? 涙の跡があるわ」と心配そうに言った。
「何でもないよ。ねえ、もっと描きたい」
 そう言って母に抱きついた。とても良い香りがした。甘く、奥深くにスーッとした薬の香りも少し。

 それからというもの、絵を描いては母の部屋に行った。父からは「用がない限り部屋に入るな」という怖い言いつけがあったが、それよりも「また見せに来てね」という母の言葉の方が何よりの力になった。絵を見せる度に母は優しく笑って褒めてくれた。それが絵描きへの夢の始まりだった。
 十才。その日はゆったりと、でも確実にやって来た。母との最後の別れの時、一緒に散歩した時の笑った母を描いた絵を棺に入れた。もう笑うことはない母に絵描きになると誓った。
 母がいなくなってからも思い出の中にある母を描いた。でも忙しい父と意地悪な兄は僕の絵を馬鹿にした。
「下手くそ」「色が変だろ」「出来損ないが」
 十六才の時に家を出た。父と兄を見返してやろうと。でも外に出て分かったのは、父と兄は間違っていなかったって事だった。僕より絵が上手い奴は腐るほどいた。よく見れば見るほど自分の絵は単調でつまらないものに見えた。それでも絵しか無かった。だから描き続けた。明日こそは最初に見た、あんな絵が描けるはずだと。


 はるかな宇宙の果てに三つの惑星がありました。火山がいっぱいの炎の星。大きな海に浮島が漂う水の星。氷の山が針のようにそびえ立つ氷の星。
 長い旅の果てにたどり着いた星人たちは、そんな生きることが難しい場所でも、助け合いながら生き延びてきました。そして……

「もうよい! そんな話、誰でも知ってるおとぎ話ぞ!」
 また、ママのキツーい声が響いた。この謁見の間、天井高いから良く響くんだよね。見上げた先の天窓に積もった雪が逃げ出すように風に飛ばされる。
「下がれ!」
 それでもフード被ったおじいちゃんは怯むことなく続けた。
「しかし、ここからが大事で……」
「うるさい!」
 出た。ママが大きく右手を上げた。これは強制終了の合図。誰にも止められない。
「魔法使いだか何だか知らないが祭りに必要なのは皆が知らない、もっと楽しいことなのだ!」
「分かりました。ではまた改めて」
 そう言って薄笑いを浮かべた魔法使いはフードを深く被って出口へ向かっていった。その後ろをお付きの小さな道化がぎこちなく歩いて付いて行く。

 大袈裟なファンファーレが鳴って、扉が開いては閉まって、また開いて新しいお客さんが入って来た。ひとりは水の星を治めている法王さん。あともうひとりは…… ちょっと暗めな感じのメガネをかけたスラっとした男の人。
「お久しぶりでございます。氷の女王様、姫様」
 そう言うと法王さんは深く頭を下げた。それを見て隣の男の人も合わせるように頭をちょっとだけ下げた。ふーん。ちょっとクールな感じね。
「青の祭りをお祝いしまして、ここにいる絵描きに女王様と姫様の肖像画を描かせてお贈りしようと伺いました」
「絵だと?」
「はい、この者の絵は不思議な色彩でして」
 法王さんはそう言うと一枚の絵を広げた。なんか色を間違ったような風景画。でもなんか、好きだな。と思ってたら黙り込んだママ。これはヤバそう、お気に召さない? どうしよう。そしたらママは
「……ほう、面白いな。よし、しばし城に留まり絵を描くがいい」と珍しく笑った。そしてすぐにいつもの冷たい顔に戻って、キリッとした横目で言った。
「姫も良いな」いつもの選ばせてくれるようで、もう選べない感じで。
「はい」それしか言えない自分が嫌だけど、今日はちょっとほっとした。私は男の人をちらっと見た。その時、彼も私を見た。不思議な色をした目。ドキッとした。すぐに私は目線を外したけど、なんか胸に熱い感じが残った。そう、それが彼との最初の出会い。一瞬だったからこそ忘れられない場面。



 時計の針がチクタク鳴っている。私は椅子に座ってる。背中が痛い。
「もー無理! 何で黙って座ってなきゃなんないの。写真とか見ながら描けば良いじゃない!」
「それじゃダメなんです。あなたという存在を描けない」
 彼はそう言ってまたキャンバスに目を落とす。

 ママの絵はあっという間に出来たみたい。それで次は私ってわけ。この部屋に二人きりで(無口な給仕のロボットはいたけど)かれこれ数時間。窓を叩く雪の音と彼の筆の音だけが聴こえる。彼の筆はなんか歌っているみたい。さららと音を刻んでいる。でも、じっとしてばかり。もう! いい加減飽きてきた。
「ねえ、喋るくらい良いわよね? 絵描きさんはどこから来たの?」
 彼は私を見ることなく筆を滑らせながら
「僕は炎の星から絵描きになりたくて星々を旅しています」と言った。
「へぇー、良いわね。芸術家は」
 羨ましいな。私はここから出た事ないし、そもそも出られない。城の外さえも。
「先日見て頂いた絵は水の星で、三年に一度咲く珍しい花の浮島の景色を描いたものでした」
 彼はそう言うと筆を止めて目を瞑った。
「夕方になるとその花びらが一斉に散るんです。しかもそれは鳥のように羽ばたき夕日に向かって飛んでゆくんです。とても神秘的で水の星では良い事の前触れと言われています」
 一瞬の沈黙が訪れた。私も目を瞑った。
「そうして花びらが全て飛び立った後にはキラキラと輝く実が残ります。それは青い希望と呼ばれ、とても貴重で美味しい果実なんです」
「食べたの?」「いや、とても大切なものなので神様に捧げるそうです。その決まりを破ると重い罪になるそうです」
「そうなんだ…」
「でもひとつだけ落ちて割れたものがあったので。ちょっとだけ……」
 そう言って彼は微笑んだ。初めて見た彼の笑顔。
「だから美味しいって知ってるのね」
「内緒です」彼は唇の前に人差し指を立てた。私も自然と笑顔になった。
「ねえ、他にも教えて。色んな星のことを。じゃないと法王さんに言いつけるわ」
「それはご勘弁を。もちろん、お話しさせていただきますよ。お姫様がじっとしてくれるなら」
「それならしょうがない。じっとしてるわ。ただ笑ったら動くけど」
「むしろ笑ってほしいな。笑顔のあなたを描きたいから」
 窓の外では相変わらず雪が吹き荒れている。見飽きた退屈なこの部屋が、いつもとちょっと違う場所みたい。少しだけあったかくて、くすぐったい感じで。

 それから数日経った。私は「もっとこうして」とか「こんな顔じゃない」とか怒ったり拗ねたりして絵描きさんに留まってもらった。だって色んな話が聞けるから。彼もまんざらじゃなさそうに話してくれる。だけど、それも今日でおしまい。だって明日からお祭りが始まるから。
「出来ました」何度聞いただろう。もう理由は付け足せない。どうしよう? 考えているうちに彼が絵を持って手渡してくれた。素敵な絵だった。
「そう……」私は反射的に答えてしまった。
「楽しいひと時でした。こんな絵でもご満足頂けたなら幸いです。それでは良い祭りを」
 会釈して彼は部屋を出て行った。言葉にならない思いが胸の奥にあった。違う言葉を言えればよかったのに。彼がいなくなった部屋。私はしばらく絵を持ったまま、立ち尽くしていた。

 次の日の夜。私は長い廊下に備え付けられたベランダにいた。賑やかな音が遠い街から聴こえる。街の灯りは全て青色になって輝いている。青の祭りが始まったのだ。
 私はハッとした。暗がりの中に彼がいた。大きなウサギの耳をつけて。
「ここからの眺めは良いですね」そう言って小さなノートに絵を描いていた。ウサギの耳、気になるんですけど。
「え? 私はここからしか祭りを見れないし、ここからじゃいつも同じ景色よ」相変わらず冷たく言ってしまった。ちょっと罪悪感。
「祭りには行かないんですか?」
「うん、だって私が行ったら大騒ぎよ」
「じゃあ、変装すれば良いのでは?」
「どうやって?」
 彼はモフモフした耳を指差した。
「青の祭りでは皆、この耳をつけるみたいですね。これならお姫様とは気づかないでしょう?」
「でもバレたら……」
「すぐ戻れば大丈夫じゃないかな。誰かを傷つけるわけではないのだから」
 彼は優しく言った。どうしよう。行きたい。でも、もしママにバレたら。でもでも……
「行く」あっ、言ってしまった。
「でも、言い出しっぺのあなたも来て」さらにお願いしちゃった。
 言ったものの足が動かない。すると彼は人差し指を口に当てて「わかりました。内緒ですよ」と私の手を握り微笑んだ。胸の奥で何かが弾けた。笑顔は何かを変える。私は手を握り返した。そして私は彼を誘いベランダから飛び降りた。

 街は人で溢れていた。炎の星の人もいれば、水の星の人もいるし、なんか全く知らない星人もいる。狭い道をウサギの耳をつけた人達が笑い合って踊っている。
 青の祭りは氷の星に最初の人間(ちなみに私はその末裔だけど)が降り立った日を祝って行われる。私は初めて見る色鮮やかな街に驚くばかり。知らない食べ物や知らない遊び。みんなほんと楽しそうに笑ってる。笑顔ってすごいね。城ではみんな冷たい顔だし、ロボットしかいないし。
 青ニンジンのキャンディを舐めながら、氷魚釣りもして、射的でお化け人形をもらった。しばらく街を巡っていると沢山の人に溢れた広場に着いた。そこには大きなやぐらがあって、一番高い場所にいる人が叫んでる。
「踊るアホーに見るアホー。同じアホーなら踊らにゃソンソンソン!」
 そして楽器を弾き始める。
「あれはギターっていう古代の楽器です。人の声みたいに吠えるんですよ」
 割れるような音で街中に響かせる。そして、やぐらの二段目にいた人達が一斉に太鼓を叩き始めた。青を灯した提灯がリズムに合わせて揺れる。広場の中は作り物の青い龍がウネウネと人の間を行き来してる。そして皆んなが踊り始めた。
「わあ、楽しそう」
踊りは嫌いじゃなかったから私は彼に言った。
「ねえ、踊ろうよ」
「いやいや、僕は遠慮しておきます」
私は彼の手を引っ張った。
「ほら、行こうよ。だって他の人と踊ったら私ってバレちゃうよ」
「え!そんな無理を」
 彼と手を繋いだまま踊りの輪の中に飛び込んだ。楽しい。とっても楽しい。お城の踊りと違って、皆んな自由に踊って楽しんでいる。飛び跳ねすぎて転びそうになる。私は彼に抱きついた。とても甘い香りがした。知らないことを知る。それがこんなに楽しいなんて!



 しばらく踊った後、私たちは小高い丘に登って街明かりを眺めていた。
「楽しかったですね」彼は汗を拭きながら嬉しそうに言った。
「しかし、姫があんな声を出すなんて」
「はあ? あなたがビュンビュン振り回すからでしょう!」
私は怒って彼の肩を叩いた。
「ふてくされた笑顔も素敵ですよ。絵に描きたいぐらいです」
そう言って彼は飴のなくなった串で絵を描くふりをした。
「もう、ふざけないで! でも本当に、あなたってどれだけ飛べるの? びっくりしたわ」
「はい、この星の重力は軽いから。僕の生まれた炎の星は重たかったので」
「そうなの?」
「ええ、だから父親のげんこつはそれは凄かったんです」
「どんなお父さんだったの?」
「父は厳しい人でした。でも母が死んでからはさらに怖くなりました。母は僕を産んだ時に身体を悪くして。それで早く死んでしまったので僕が母を奪ったと父は僕を憎んでいました。兄もですが」
「そんな…… あなたのせいじゃないでしょう?」
「どうでしょうか……  でも、どっちにしても良い息子ではなかったと。期待にはそえなかったし」
 彼は遠くを見た。そこには炎の星が浮かんでいた。
「母はとても優しい人でした。僕に絵を描くきっかけをくれました」
「そうなんだ」
二人の間を静かに風が流れた。それに乗るように彼は言った。
「姫のご家族は?」
「うち? そうね、ママは知っての通り、こわーいの。もう口うるさくて強引で」
「ははは。確かに。でも絵を描いている時はお静かでしたよ」
「そうなの?でもパパは正反対に優しかった。パパは科学者でもあったんだけど……  私たちの一族はあなたたちよりとても弱いの。この街はドームで守られているけど、そこから出たら生きていけないぐらい。だから研究していたの。強くなれるように」
「そうですよね。大昔、母なる星から逃げ延びてきた我らの祖先でも、純粋な人間はあなたたちだけ」
「あなた詳しいのね」
「はい、その辺りのことは」
「そう。それでパパがドームの外に出て実験している時に事故で死んでしまって……」
 二人の間に沈黙が流れる。その隙間を遠くの喧騒が埋めている。
「パパの口癖は”皆んな同じ”だったの。王族も星人たちも皆んなって」
「そうですか、立派な方だったんですね」
「だから私もパパの想いを忘れないで頑張ろうって思ってる。まあ、ママが厳しいのは私以上に頑張ってるからだと思うけど。パパが死んだ日にママは凄く泣いてたの。嘘でしょ嘘でしょって。でもその日以来、ママが泣いたり弱音を吐くところなんて見たことないんだ」
 私は空を見上げた。星が瞬いた。まるで答えるように。そして、ふと横を見た。彼はメガネを外し手で目を擦っていた。あれ、涙が出てる。
「ちょっとちょっと、何泣いてんのよ」彼の脇を肘で突いた。
「ははは、すみません」頭をかいて恥ずかしそうにした。でも、メガネを外した彼の瞳を初めて見た。左目は深い黒色。でも右の目はすっごく綺麗な紫色。
「えー!すごく綺麗な色。メガネで隠さなくて良いのに」
「いやいや、僕はこの瞳が好きになれなくて。これで色々苦労もあるんです。実はこの瞳のせいで色が違って見えるようなんです。だから僕の絵は変なんです。皆んなが見るような景色は描けない」
「そうなの? でも、あなたの絵ってわりと素敵よ」
「はは。ありがとうございます。でも、心の中に描きたい絵があって、まだまだそれが描けないんです」
「どんな絵なの」
「母が好きだった絵が僕の目標なんです。描かれていたのは三つの星と女性の絵で」
「へえ、この三惑星の絵かしら」
「さあ、どうでしょう?三つの星は僕らの星とは違う色なんです。でも構図が良いとか、技術が良いとかじゃなくて。なんか、こう、魂がある。生きている、っていう感じなんです。そんな絵が描きたくて、今も下手くそでも描き続けて旅し続けているんです」
 彼の瞳がキラキラ輝く。私には、そんな瞳こそ生きてるって感じがした。
「きっと、あなたなら描けると思う」
「ありがとうございます。いつか描ける気はしているんです。もし描けたなら、姫。ぜひ見てくださいね」
「まあ見てあげても良いわよ」
 私たちは指切りした。
「しかし本当に楽しい日々でした。僕は明日、法王と共に他の星へ渡りますが最後に姫とご一緒出来て良かったです」
え、突然のお知らせ。どうしよう。もちろん、どうにかできるわけじゃないけど。いや、なんか嫌。とっても嫌。
「そうなんだ。でも、ねえ……」
 言いかけるけど言えない。この先を言えない理由が私にはあった。どこかで風船が割れるような音がして子供の泣く声が続いた。私は足元の揺らぐ草を見ながら言った。
「ねえ、どうせ忘れちゃうんでしょ? いろんな場所でいろんな人に会って、いろんなもの食べたらさ。きっと今日の事なんて。全部リセットしたみたいに」
「リセット?」
「そうよ。全部ゼロにして旅を楽しんで」
「そんなことありませんよ」
「いいのよ。私も全部リセットしたいから」
 彼は心配そうな顔をしている。ああ、やっちゃったなあ。私は彼の脇を小突く。
「冗談よ。たまにね、思ったりするの。リセットできたらって。こんな窮屈な場所でも、色々選べるチャンスはあったと思うの。でも私、選べなかったし選ばなかった。だからこんな風に素直じゃないのかも」
 風が髪を揺らす。私は夜空を見上げた。
「また初めからやり直せたら、もっと違うふうに生きられるかなって」
 なんか泣きそうだからずっと上を向いていた。遠くで笑う子供たちの声が聞こえる。彼はその声の方を見ながら言った。
「僕もとんでもなく失敗した絵になった時、白で塗り直して最初から描き直すんです」
「そうなの? 大変ね」
「真っ白になったキャンパスは、始まりにリセットさせられたように見えるんですが、違うんです。白の奥に隠れた、それまでの絵の色や想いが僅かに残るんです。ほんとうっすらと。そうすると同じ色を塗っても、もっと深い色になるんです」
 私は彼を見た。優しく笑っている。
「だから姫、リセットは出来ないけど… 心を塗り替えることはできるんです。今までの姫を消すのではなく、今までの姫があったからこそ出来る新しい色を」
 彼が私の手を握る。
「大丈夫。きっと姫なら出来ます。絵を描いていて思ったんです。あなたの奥深くには様々な色があることを。明るい色だけでは色は深くはならないんです。だから大丈夫」
 彼は深く頷いて私を見た。太鼓が止まり、一瞬の静寂が降りる。私は言葉を探して言った。
「ありがとう。ねえ…… 」
 そして一度深呼吸して力を込めて言った。
「どうか、良い旅を! あと理想の絵、待ってるよ」
「はい! また会いましょう」
 私の気持ちを隠すように祭りの賑わいが戻って膨らんでゆく。遠くで花火の音も聞こえ始めた。
 彼の瞳を見た。彼の笑顔を見た。私に絵が描けたなら、きっと素敵な絵になっただろうな。永遠に忘れないだろう、丘の上で座り並んだ二人。タイトルは永遠の丘。なんてね。そして、そう…… これが彼との最後の夜だった。

 それから何日か過ぎた。私はベランダにいた。いつもと変わらない風がそよぐ。誰にとってもあんなに楽しかった祭り。それが終わっても、街も城も日常を取り戻すのにそんなに時間は掛からなかった。だけど私の心だけが錆びた機械の歯車みたいに上手く回ってゆかない。

 ため息が出る。朝、鏡の前に立つ。ふてくされ顔。知らない誰かさん。いや、私か。
大きく深呼吸する。大丈夫。大丈夫。鏡の私に微笑む。きっとうまく行くさ。彼の声が聞こえた。私も繰り返す。大丈夫。
そこへ給仕のロボットがやってくる。
「朝ゴハンハ、イカガイタシマショウ?」
「そうね……」
 私は唇に人差し指をあてて言った。
「よし、トーストパン、ジャム大盛りで!ママには内緒ね」
「ショウチイタシマシタ」
ロボットは答えた。

 随分先だと思っていたこの星の短い夏がもうやって来た。そう、時間はしたたかに過ぎてゆくもの。私たちなどお構いなしに。
夏の間だけは雪がしばらく降らない。吹雪に隠れず遠くまで景色が続く。白い稜線と青空が眩しく綺麗。少しだけ閉じ込められた感じが減る。だから好きな季節だったんだけど。…今日は違う。
 私は正装のドレスに着替える。無駄に長いスカートを引きずって長い廊下を進む。重いはずの扉が音も無く開く。そこにママが立っていた。
「わかっているわね。今日、彼らが来るわ」
「はい……」
この日が来た。分かってる。でも。

 重々しい冷たい椅子に座る。いつもより大袈裟なファンファーレが鳴り響く。
「炎の皇子、御成!」
 扉が開き背の高い男の人が両手を上げて入ってきた。これがきっと炎の皇子だ。その背後には赤い服を着た従者が八人ぐらいいる。一番前の従者は肩にスピーカーを抱えてる。スイッチを押すと爆音が鳴り響く。リズムに合わせて皇子が歩き出した。従者たちも合わせるようにくねくね動き出した。え?なにこれ?

「イェーイ、麗しの女王様、姫様!お待たせしました、炎の皇子とは俺のことです、お見知り置きを!」
 と言って一回転。ああ、無理なタイプです。
「これが我ら炎の星の流儀! 挨拶の舞、バーニングスターという曲です!開拓期から続く伝統あるものなのです」
 そして私の前に来て跪き、ゆったりとした動きで手をとり「お会いできて光栄です」と言うとヒラリと一回転ジャンプして直立不動。胸に手を当て急に落ち着いた声で「この度は我ら炎の星の申し出をお受けくださり感謝感激です!」
 そして拳を上げて大声で「はははは」と笑い出した。それを合図に従者たちは互いにハイタッチしてイェーイなんて言い合っている。これが炎の星のやり方なの?
 だけどママは顔色変えずにいつものように落ち着いた冷たい声で言った。
「我らは新たな時代を繋げねばならぬ。この婚約が三惑星の未来とならんことを」
「はい、もちろんです。は、は、う、え」



 その夜、久々にママの部屋で二人きり。私は勇気を振り絞る。
「ねえ、ママ。やっぱり」
 沈黙が流れる。
「……無かったことになんて出来ないよね?」
 はあ、ため息ついてママは早口で言う。
「何を言っているの。炎の星と氷の星の崩れた関係性を戻す為とあなたが言ったでしょう」
 そう、三つの星が仲良くやっていたのは昔の話。今ではお互いが歪み合って緊張状態が続いている。もしかしたら戦争になるかもしれない。そんなことになったら沢山の命が危険にさらされる。だから私は、私に出来る事があるならって思ってママに言ったのが大分前の事。その時は悩んでいたママが言葉を強めて続けた。
「パパが言っていたでしょう。王族も星人もみな同じ。命の重さは変わらない。だから、守られてきた私たちが今度は守るのよ」
 わかっている。ママはパパが死んで必死なの。人々を守るため、私を強く育てるために。だからそれが余計に私には痛い。
「……はい」
私は絞り出した。
 窓の外を見ると真っ暗な樹氷の森が広がっている。小さい頃、ママがよく読んでくれた『帰らずの森』って絵本があった。この森の先には魔法の街があって幸せになれる。でももう帰って来れない。そんな話。
 ああ、このまま森に逃げ込めたならなあ。そんな森の上には雲ひとつない夜空。まるで魔法をかけたように沢山の星が瞬いてた。

 それから話はどんどん進んでいった。私の心は置いてけぼり。身体だけ先へ先へと持っていかれる感じ。そして婚約を祝うパーティーが開かれた。
 惑星の色んな代表者たちがやって来る。皆、仮装をしている。姿が違う星人たちが集まる場ではそうやって共感性を高めるのだ。氷の星で言うと青の祭りでは青いウサギだったり、パーティーでは白猫の仮装だったりと。

 私はこういう場が苦手。早く逃げ出したい。色んな人が挨拶にくる。うんざりしていた頃に見たことある人が来た。あれ、法王さんかな。
「どうも、氷の姫様。私は水の星から来ました」それは法王の息子さんだった。私は絵描きさんを思い出す。
「父がお世話になりました。その父は今、手が離せない仕事がありまして」
「そうですか。あの……ご一緒だった絵描きさんは?」
「絵描きですか?ああ多分、今も父と一緒だとは聞いていますが」
 良かった。ほんと良かった。胸がドキドキした。元気かな?
「ご婚約おめでとうございます。それでは失礼致します」
 行ってしまった。もっと聞きたいことあったのに。あの人は、今どこの星にいるんだろう。今、どんな絵を描いているんだろう。



 そんな想像をかき消すように大きな声が響く。炎の皇子が歌い出した。はあ。あの人は仮装なんかしないでいつもの格好。マイクを振り回して従者と騒いでいる。それを見てみんな気を使っているのか、変に盛り上がっている。私はクラッとして倒れそうになる。給仕のロボットが声をかけてくれた。
「ダイジョウブデスカ?」
「ありがとう。ちょっと休むわ」
 私は隣の部屋で休むことにした。

 壁の向こうから賑わう声が聞こえる。変ね、婚約のパーティーなのに、私がいてもいなくても関係ないみたい。まあ、それでも良いんだけど。平和のための犠牲。私は捧げ物。なんてね。
 白猫のカチューシャを取ってソファーに横になる。もう、髪が崩れてもいいや。疲れたなぁ。
そのとき、ドアが開いた。
「姫様。大丈夫かぁい?」
 返事も聞かずに炎の皇子が指を鳴らしながらステップを踏んで入ってきた。酔っ払ってるみたい。いや、もともとそんな感じか。
「具合が悪いと聞いてさ」私の横に座り込んだ。私は起き上がる。
「大丈夫です。もう少し休んだら戻りますので」
「まあ、これからふ、う、ふ、になるんですから。そんな仰々しい感じじゃなくて良いんじゃない?」そう言って私の肩を抱いた。
「ほんと、大丈夫ですから」
「いいや、俺が支えてあげよう」皇子の顔が私の顔に近づく。

「いや!」
「ほら、そんなこと言わないで」
「やめて!」
「おい、おい、困った子猫ちゃんだなあ」強引に私を抱き寄せる。
「俺のお妃さんには教えておこう」
 皇子はサングラスを外した。その左の瞳は紫色だった。
「この瞳の色は炎の星の王族のみが受け継ぐものなんだ。この瞳の前では誰もが平伏す。力の瞳さ」
 あれ、あの人と同じ紫色。でも、何か違う。うん、あの人はもっと深くていろんな色が混じり合った紫だった。この人の色はなんか嘘っぽい。深みが無い。そんな気がした。なんか悔しくなって私は言った。
「私、知ってる。あなたよりもっと綺麗な紫色した瞳の人を」
 そう言って皇子から逃れようと手に力を入れた。私を掴む皇子の手が強くなる。
「なに? 俺よりも? どういうことだ!」
「だからあなたより綺麗な紫の瞳の炎の星の人を!」そう言って気が付いた。王族だけの瞳ってことはあの人も……
「おいおい姫様、教えろ! もしかしてあいつを知っているのか!」
 皇子の顔が怒りで震えている。本能的に彼のことは言ってはいけないと悟った。
「言わない!」なんでだろう、勝手に涙が出てくる。
「あんたなんかに絶対言わない」
「なんだと!」皇子の唾が飛ぶ。
「いい加減にして!」
 私は精一杯手を振り解こうとした。でも皇子は私の両手を掴んで「そうか。あいつを知ってるんだな! しかも、しかもあいつに惚れているんだな!」と叫んだ。私はあの人を思い出す。優しい声、綺麗な瞳、そして手の温もりを。
「そうよ、あの人が好きなの! あなたとなんて無理」
「あーー! クソッタレの弟め!」皇子は自分の頭を叩く、狂ったみたいに。え、弟?
「いつでもあいつが俺を邪魔する! ふざけるな! ふざけるな!」そう言って皇子は強引にキスをした。
 私は咄嗟に彼を強く押した。やはり飲み過ぎていたのか彼は足を滑らせてバランスを失って倒れた。倒れた拍子に壁際に飾ってあった鎧人形が倒れた。その弾みで鎧が持っていた長い剣が外れて王子の顔に落ちた。あっという間に赤い血が花火の様に弾けた。そして剣が乾いた音を響かせ床に転がった。

「ああ! 痛い! 俺の目が!」
 皇子が大きな声で叫んだ。廊下で待っていた従者が入ってきた。
「この女が、この女が」
 皇子が狂ったように私を指さして繰り返した。震えが止まらなくて私は立ち尽くしていた。

 何も考えられなくなって私は部屋に残っていた。従者に連れられて、すでに皇子はいなくなっている。ふと気付けば聞こえていたパーティーの賑わう音は無くなって、静かな重たい空気だけが漂っていた。
 その中をかき分ける様にママがゆっくりといつもと同じ様にやってきた。私は俯く。涙が溢れる。こんなはずじゃなかったのに。ダメ。我慢しなきゃ。ママには見せられない。でも止まらない。私のせいで。私は子供みたいに嗚咽しながら泣く。パパが死んだ時もこんなに泣かなかったのに。
「ご、ごめんなさい、わ、わたし……」
 怒っても、叩かれても構わない。ママ、許して。
 だけどママは私を抱きしめた。ママの身体も震えていた。ママも動揺してる。そう思うと頭の中に色んな思いが溢れてきた。この星のことも、パパの事も、ママの気持ちも。私のせいで、私のせいで。私は壊れそうな心を振り絞って言った。
「もう、消えちゃいたい」
 ぐちゃぐちゃな想いがドロドロの沼みたいになって私を沈めようとしていた。あの人への想いだけが一本の糸の様に私を繋いでいた。でもそれも切れそう。もうダメ。その時、ママが小さくつぶやいた。
「ごめんね。全部私が悪いのよ。あなたは何も悪くない」
その言葉が私の心を繋ぎ止めてくれた。私はママの胸で泣き崩れた。



 炎の星。至る所で炎を噴き上げている。岩山に囲まれた街の中心に赤の塔が立っていた。それは炎の星の王族の住まう場所だった。そこに皇子の宇宙船が戻ってきた。
 右目に包帯を巻いた皇子が玉座の前に跪く。座っているのは炎の皇帝。低く響く声で言った。
「相変わらずだな」
「でも、父さん。俺が悪いんじゃなくてあの姫が」
「黙れ。やっと我ら炎の民が三つの星を束ねられるチャンスが巡ってきた時に」
 そう言って皇帝は手に持っていたワインを皇子にぶちまけた。
「まだ、いなくなった弟の方がよかったか」
「あいつは……」皇子は言いかけて止まる。
「やはり、おまえも出来損ないだな。消えろ。あとはわしがやる」
 そして玉座から立ち去った。残った皇子に従者が駆け寄る。
「う、うるさい!」皇子は従者を殴った。そしてワインと涙にまみれた左目を拭った。小さな紫色のコンタクトレンズが落ちた。真っ黒な瞳が小刻みに揺れていた。

 塔の中央には幾重にも続く螺旋階段があった。暗がりの中、嗚咽する声が響く。皇子は階段を登って行った。最上階にある祈りの間に入った。
「何故なんだ。どうして俺ばっかり。認めてもらいたいだけなのに。あいつより、俺の方が凄いって。なのに親父も姫も」
 皇子は咽び泣いていた。長い間泣いていた。どこからか声が聞こえてきた。
「出来損ないなのは、お前の事をわかってくれない世界の方さ」
 皇子は顔を上げて、声のする場所を探した。
「おいおい、そこじゃないよ。お前の中からさ」
 胸に手をやる。すると自分の鼓動とは違うリズムの鼓動があることに気づいた。
「さあ、始めるんだ。お前は正しい。その正しさを汚す奴は塗り潰せば良い」
 皇子は目を閉じた。身体の奥から力がみなぎるのを感じた。
「そうか、俺は正しいんだ。それがわからない奴が悪いんだ。そんなのは俺の世界にはいらない。全部リセットだ。また始めてやる」
 そして大声で従者を呼んだ。従者が集まり皇子の前に平伏した。
「さあ、戦争を始めるぞ。全て手に入れてやる」

 水の星。大きな海だけの星に、浮島が点在し、その上に小さな街が作られている。
その浮島の正体は、植物と動物の間にいるような原生生物の集まりだった。大きな亀のような生物の上に植物のような色とりどり生物が絡み合って島を形取っていた。

 その日、法王と絵描きは首都のある島から遠く離れた小さな浮島にいた。法王はそこだけに生息する生物の保護の為に、そして絵描きはその手伝いだった。
 絵描きは午後の仕事までの空き時間、桟橋に座って絵を描いていた。隣に法王がやってきて座り込んだ。
「何の絵を描いているのだ?」
「はい、実は…」
 絵描きは絵を見せた。そこには一人の女性が描かれていた。青い光が蛍のように舞う中、微笑んでいた。
「これは…… 氷の姫様」
 法王はその絵に吸い込まれるように見入っていた。絵描きはそんな姿を見ながら言った。
「恥ずかしながら、あれからずっと姫の絵だけを描いています。今までは上手く描こうと思ってやっていたのですが、姫の絵を描くのはただ楽しくて楽しくて。まるで姫とお話ししているようなんです。そしたら、やっと描きたかった絵が描けそうなんです」
「おぬしが描きたいと言っていた深く魂のある絵か。確かにこれは……」
 法王は顎を指でさすりため息をつき、
「しかし姫は…」と言って言葉を止めた。絵描きはそんな法王を気にせず言葉を続けた。
「なので、もう少しで完成すると思っていたんです。でも昨日嫌な夢を見まして」
「夢?」
「はい。何故か姫が泣いているんです。暗闇の中で。どうしたの? と聞いてもただ泣くばかりで。まるで現実のような夢で。目が覚めても気になって、そうしましたら急に筆が進まなくなりました」
「そうか」
 法王は目を閉じ歩いた。足元の小さな茂みを踏むと、それに驚いた葉っぱのような形をした一匹の”葉鳥”が緑色の羽を広げ飛んでいった。それにつられるように島中の葉鳥が飛び上がった。風を巻き上げ鳥は羽ばたいた。沢山の葉鳥が飛んでいった後、静寂が訪れた。その中で小さい生き物の鳴き声が響く。
「ここにいたか」
 法王は小さな苺のようなものをすくいあげた。絶滅寸前の生き物、ヨミシラズだった。水の星では危機の前兆と呼ばれているが見た目も鳴き声も可愛らしい。
その時、浮島に寄せていた船からお付きの神官が「法王様!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「どうした?」
 息を切らしながら神官は言った。
「大変です! 炎の星と氷の星が戦争を始めました!」
「なんだと!」
 法王と絵描きは顔を見合わせた。
「まさか、それが夢の理由?」
 絵描きは俯いた。そして振り払うように顔を上げた。
「法王様、僕は行かなければ」
「ふむ、わかった。すぐに準備させよう」
 法王は神官たちを呼び寄せた。ヨミシラズが可愛い声で鳴いた。絵描きは空を見上げた。
「どうか無事でいて」
 青空の向こう、見えない氷の星を思いながら。


 氷の星。

 私はここにいる。ねえ、あなたは今どこにいるんだろう。私、やっとわかったの。当たり前だった窮屈なこの場所も、当たり前じゃなかったことに。
 そう、笑っても泣いてもこの瞬間が私の全て。だからもう、誰かのせいにするのはやめた。素直になろう。だって誰かのせいにしたら私の人生じゃなくなっちゃうもん。気付くのちょっと遅かったけど。

 窓の外。雪しかなかったこの星に、不釣り合いな赤い炎が揺らいでいる。いつでも落ち着いていたママが不安そうな瞳で私を見ている。私は深く息を吐いて頷く。
「ママ、大丈夫。さあ、お願い」
私は給仕のロボットを見た。ロボットは私に戦闘服を装備させる。「ありがとう、ヒップライト」
「ハイ。ヒメサマ」

 遠くで響く爆発音。似てる、あの日の花火の音と。でも違う。その音の場所では誰かが傷ついている。泣いている。
私は胸に手を当てる。そして私自身に語りかける。

 これは私が進む道。ここで精一杯やるの。さあ、行こう。この星を守る為に。そしてもう一度あの人に会う為に。

 私は震えが止まらない手を握りしめる。
この儚くて、だけど大切な想いを無くさないように。


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