スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。ぼやけた視界のまま、スマホを開いた。彼女からの連絡は今日も来ていない。

ベッドから起き上がり、スマートスピーカーに挨拶をする。最近はコイツとしか話をしていない気がする。無機質な声で精一杯の親切さを装って返事を返してくれた。
「おはようございます。朝のニュースです。今日の天気は曇り。強風により胞子がより飛散するでしょう。不要な外出は避けましょう。そして街の閉鎖が……」
僕はそれを聴きながらお湯を沸かす。仕事は先週でクビになった。朝早く起きる必要もないのに習慣ってのはめんどくさいなと思った。スマホをいじる。どこかの知らない誰かの眩しい笑顔を見ては、嫌になってため息が出た。そんな中、ほぼ無意識に手は動き、コーヒーを入れてる。彼女と買ったお揃いのマグに並々注がれる。それを持ってテーブルに向かうと足元の何かにつまずいた。絨毯にコーヒーが散らばる。ああ、またやっちゃったよ。ため息をついてティッシュをむしるように取る。苛立ちを打ち消すように叩きつけて拭き取る。ふと見上げる。時計は11月24日7時45分と表示されている。あれ、今日は25日だったよな。彼女が久々にやってくる約束の日だったはず。でも今日も前日の24日か、準備しなきゃ。あれ、おかしいな。その前も24日だったような。いや、ずっと24日のままだ。

窓の外を見た。街の真ん中に大きな三日月が浮かんでいる。その月に植物が絡みついている。街中にその植物は根や枝を伸ばし、この部屋にもやって来ている。街には人の気配がない。ただ強い風が吹き、胞子だけが楽しげに舞っている。そう、この街は変だ。いつからだっけ。
僕は思い出す。そうだった。ずっと同じ今日が繰り返されているんだ。この街に明日は来ない。だから僕はずっと彼女には会えない。

LOOP WORLD

 スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。ぼやけた視界のまま、スマホを開いた。彼女からの連絡は今日も来ていない。

 ベッドから起き上がりニュースを聴きながらお湯を沸かす。スマホをいじる。コーヒーを入れる。彼女と買ったお揃いのマグだ。それを持ってテーブルに向かう。クス、と笑い声が聞こえた。僕は立ち止まる。コーヒーをシンクに置いてその音の出所を探す。

「あれ、今日はこぼさないんだね」
「お兄ちゃんが笑うからよ。もう、ダメじゃない」
「だって、人間はおんなじ失敗ばかりするんだもん」
「そういうものでしょ! 人間なんて。っていうかこの世界ではね」

 そこには見たことない青色の生き物が二匹いた。頭に二本のツノが生えた方が答える。
「あー、えっとおれは時樹(トキ)の子、キノって言うんだよ。で、こっちが妹の……」
 隣の一本だけツノが生えた方が続けて喋った。
「わたしはキコ。よろしく」
 時樹の子? 聞いたことない生き物だ。て言うか喋るの? 座敷童かなんかの一種? 僕があまりに困惑した顔をしていたからか、キノと名乗った生き物が話し始めた。
「あのね、時樹の子っていうのは、ほら。街中に生えてる時樹の木の子供でね。人間たちを見張ってるんだ。なぜ見張っているかというと、時樹の木は月から時間を吸い取って、この街から明日を奪ったのね。でも、人間がそれに気付いて月についている時樹の木を切ったりしたら元通りになんてさ…」
「ちょっと! お兄ちゃん! 言い過ぎ! ダメじゃない!」
 キコが怒ると
「あ…… というのはウッソー! おれらは皆さんには無害の新しいお友達です」
 とキノはお尻を突き出した変なポーズで戯けた。

「お前達がこの街をおかしくしたのか? 勘弁してくれよ」
 僕が言うと肩を竦めたキコが言った。
「ほら、お兄ちゃん。この人にバレちゃったよ!」
「まあまあ、キコ。大丈夫だよ。ずっと見てたから知ってるけど、この人は“いい”人だから。それにこの“いい”人は外に出て、月まで行って木を切る勇気なんてあるわけないし、そもそも彼女が会ってくれない理由が『仕事が忙しいから』っていうのを怪しいと思っても、結局は信じちゃうだけの平和主義で臆病な“いい”人だからね」
「あー、そうね。周りに流されて、周りのせいにしてばかりだもんね」
 おい、なんでこんな変な生き物にも馬鹿にされなきゃいけないんだ。イライラした。
「はあ? 何を言ってるんだよ! 彼女とはずっと一緒だったんだ。たまたま今、仕事で離れているだけで。それに僕の何を知ってるって?」
「確実に知ってるのは、この状況を変える勇気は持って無いってことだね」
 キノが窓の外を指差した。風に舞う胞子、天に伸びる木が異様な景色として目に入る。
「え…… そりぁ僕は、フツーの人間だし、あんな大きな木をどうにかするなんて、国とか警察とか何かがやってくれるだろう」
「ほら、何もしない、“いい”人だろ?」
 キノが笑う。キコが背伸びをして言った。
「そうね。まあ、24時になれば胞子の雨になって時間は戻るから、またおんなじ今日になるだけね」
 訳がわからない。24時になると戻る?

「じゃあ、夜になるまでこのスマホとやらで遊んでみよう」
 いつの間にかキノが僕のスマホを抱えている。
「おい! やめろよ」
「いつも大事そうにスマホいじってるもんねぇ。でも連絡は来ないよ、だって彼女は……」
「返せ!」
 窓際にキノは逃げた。
「お兄ちゃん、やめなよ。ソレやると、頭が変になるよ」
「だって、一度触りたかったんだ」
「おい! 返せ」
 僕が手を伸ばすとそれを避けようとキノが飛び跳ねた。そして勢い余ってそのまま窓から落ちてしまった。
「あ! お兄ちゃんが…… ちょっと何すんのよ!」
「僕のせいじゃない」
 僕がたじろいでいると外から声が聞こえた。
「おーい、助けてくれよー」
 キコが足を揺すりながら急かす。
「ほら、早く!」
「あ、言われなくても行くよ! スマホ返してもらわなきゃ。彼女と連絡が取れなくなる」
「ふん。まあ、もう取れてないけどね」
 キコがそう言ってるのを無視して僕はドアを開けた。

 久々に外に出た気がする。街の至る所に根や枝が張り付いている。風に胞子が舞っている。呼吸をすると、頭がボーっとした。僕の後に続けて外に出てきたキコが言った。
「あんまり、吸わない方がいいんだけど。あなたたち人間の心を少しずつ奪うから」
 僕は上着を引っ張って口に当てた。

 マンションを裏に回り込むと茂みの中にキノがいた。寝転んでスマホをくるくる回しながらうっすら笑っている。
「死ぬかと思ったよ、何てウッソー。おれら時樹の子はこのぐらいじゃ怪我一つしないんだもんね」
 そう言ってキノは僕にスマホを投げた。ふざけやがって。僕はそれを受け取った。どうやらスマホは壊れてはいないようだった。

「小さきものと人が真っ昼間におるとは、はてはて不思議。めでたいような不幸なような」
 どこからかしゃがれた声が聞こえた。見上げると電柱に時樹の子に似た毛むくじゃらの生き物がいた。杖を持って腰は曲がっている。小さな老人のようだ。
「じいちゃん、誰?」
 キノが聞いた。老人は答えた。
「ほーうほう、じいちゃんでよかろう。はて、ずいぶん昔はお前さんたちのようにはしゃぎ、気づけば大きな木となり、やがては実りここまで飛んできた。今更やることも無い、ただただ世界を眺めるのみじゃ」
「あー、最初の頃の時樹の人なのね。だいぶレアケースね」
 キコが言った。
「あのさ、時樹の人って何?」
 僕がキコに聞くと代わりにじいちゃんが答えた。
「ほう、知りたいか人間。この木の意識の総体。敵であり味方であり、友であり、やはり敵である。それは見るもの次第。ただ今の新型はちょいと厄介か、敵からも味方からも」
 キコがため息をついて言った。
「もう、男っていくつになっても余計なことばかり言うのね。黙っててよ、じいちゃん」
「ほーうほう、幼子よ。無駄口も、またこの迷路の世界では出口となる。このものとゆくがよい。お前さんたちの悩みも変えられよう。友であり敵であるのだから」

 キコが黙り込んだ。コイツらにも悩みとかあるのか、僕は思った。キノが笑って言った。
「まあ、切りに行くも行かないも、いい人が決めなよ」
「切るって、僕があの月まで行って?」
 僕は見上げた。奇妙な景色の中、月は気高く美しかった。まるで彼女のように。スマホを見る。待ち受けには彼女と出かけた遊園地で撮った写真。笑顔が素敵だ。もう一度、月を見る。枝に絡まれた月は満ち欠けが出来ずに苦しそうに見えた。月を助けなきゃいけない気がした。背後を振り返る。僕が住んでいる古びたマンションが建っている。建物に根が張り影を落とし佇んでいる。カビの匂いと後ろ向きな気持ちの塊のようだった。
「ねえ、人畜無害のいい人って誰にも害は与えられないよ。だから木を切るぐらいの簡単なことだって無理無理」
 キノがひそひそ声で言った。キコが答える。
「そうね、心配するだけ損ね」
「でもこれができたら彼女も惚れ直すんじゃない」
 僕はハッとした。それに気づいたのかキノは僕を横目で見ている。僕は恥ずかしくなった。そしてすごくイライラしてきた。この変な生き物に、この状況に、この世界に、そして自分自身にも。
「はいはい! 分かりましたよ! ひとまず、様子見に行ってきますよ!」
 と、そう言ってから後悔した。だけど時すでに遅し。
「お! 言うねえ」
 キノがそう言ってじいちゃんと笑い合った。キコはため息をついていた。
「っていうのはうっそ…で……」
 言いかけた僕の言葉を遮って、キノが僕の手を引っ張った。
「ホントに調子のいい人だね」
 そう言って僕を部屋に連れ戻した。

「はあ。きっと無理だと思いますけど」
 そう言いながらもキコは僕の部屋から必要なものを探してくれた。
「まず、胞子はできるだけ吸わないようにマスクをして。あと帽子もね。24時になると時樹の花が咲いて胞子でいっぱいになる。そうするとみんな1日前に戻るの。記憶も身体も」
 懐中電灯をリュックに入れながらキコが教えてくれた。そしてキノは窓辺に立って月を指差して言った。
「だからそれまでに月に一番近い枝を切るんだよ。そうすれば月は満ち欠けを取り戻して、時間は動き出す」  そう言われて僕は窓の外を見た。月まではだいぶ遠そうだった。
「はい、コレ」
 キコが大きなノコギリを持って来た。
「どこから?」
「日曜大工好きのお隣さんから。さあ、行きましょ」

 街の中心に月は捉えられている。そこへと繋がる太い枝を伝って歩いてゆく。まずは大きな川を渡る橋の隣でくねる枝を進む。眼下の川面では胞子が楽しげに跳ねていた。それは川に沈むことなく弾かれては対岸へ飛んでゆく。どこを見渡しても外には人はいなかった。でも窓越しに見える部屋の中では、それぞれが生活をしている様子が見えた。時折、僕に気付く人もいるが、特に気に留めないようだった。
「人間たちはみんな、胞子の影響でやる気がないのよ。何となく、今日が繰り返しているのは気付いていてもね」
 キコがつまらなそうに教えてくれた。

 空が暗くなってきた。懐中電灯を灯す。何度か滑りそうになる。キノが時折、手を貸してくれる。キコも悪態をつきながらだけど背中を押してくれたりする。案外、悪い奴らじゃなさそうだ。

 何時間歩いたのだろう。いつの間にか街の中心に入り、周りは高いビルに囲まれ始めた。枝はビルの間を上手く避けてすり抜けて続く。下を見ると相当な高さだということが分かる。でもあまり怖さは無い。これも胞子の影響なのか。そういえば、胞子もだいぶ増えてきた。ビルの森を抜けて、枝は空高く緩やかに弧を描いていた。風が心地良く吹く。黄色い胞子が舞う景色は不思議な美しさを纏っていた。不安よりも、知らない世界を旅する、そんなワクワクしたような気持ちが勝ってきた。こんなふうに思えるなんて自分でも意外だった。
「勝手にヒーロー気分で達成感に浸ってないでよ」
 キコの言葉で我に返る。
「なあ、キノとキコはどうして僕と一緒に来るんだ?」
「それは、いい人があまりに頼りないからだよ」
 隣で歩くキノが答えた。
「そんな頼りなく見えるか? よく言われるけど……。そういえば悩みがあるんだろう? それが理由か?」
「まあね、おれらは……」
「お兄ちゃん! 喋りすぎ。もう時間がない。急いで」

 その時、風が吹きザワザワと葉が擦れ踊る音が鳴り響いた。
「まずい! 時間よ。花が咲くわ」
 枝の至る所で小さな蕾が膨らむ。それはあっという間に大きな12枚の花びらを広げる。甘い香りを放ち、やがて胞子を撒き散らした。胞子は風に乗り大きな波となり吹雪のようになった。街を覆い尽くす。目の前が見えなくなるほどに。
「キノ、キコ、どこ? 見えないよ」
 僕は意識が遠くなる。落ちないように枝にしがみつく。
「おーい、いい人」
 遠くで声が聞こえた。僕は深く眠りに落ちる。全てが真っ暗になった。

 スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。ぼやけた視界のまま、スマホを開く。彼女からの連絡は今日も来ていない。

 スマホ越しにムクムクと動くものがいる。
「え? なんだ?」
 一本ツノの生き物が喋った。
「ほーら、お兄ちゃん。やっぱり元どおり。無駄だったね」
「いいとこまでいったのになあ」
 二本ツノが答える。僕は記憶が蘇る。
「キノ、キコ!」

 テーブルを囲んで僕は椅子に座る。向かいにはキノとキコがテーブルの上に座り込む。僕はコーヒーを飲みながら話を聞いた。やっぱり24時で全てが元に戻されたようだった。24時になると時樹の花というのが咲いて胞子をしばらく撒き散らす。胞子は人々を眠らせる。その間に、時樹の木は街から時間を奪ってゆく。
「大変だったんだから、あなたを運ぶの」
 キコが肩を揉みながらそう言った。どうやら意識を無くした僕を二人が運んできたらしい。24時から朝までの彼らの身体は、意思とは無関係に、胞子が命じるまま時間を戻す為に行動させられるらしい。
「嫌なんだよね。勝手に動かされるのが。わたしたちはわたしたちの思いで生きていたいのに」
「そう、今の時樹の人は凄く強引でおれたちをそうやって支配しているんだ。でも胞子が唯一の栄養で、それがないとおれらは生きられないし。で、勝手に操られる。だからいい人がそれを変えてくれたらと思ったんだ」
「じゃあ、目的は一緒なんだ。この繰り返す世界を終わらせる」
「まあ、そうなんだけど、今回の事でよくわかったよ。いい人じゃ無理だ」
 キノはそう言ってテーブルから飛び降りた。
「そうね、結局わたしたちはずっとこき使われて終わるのね」
 キコは背を向け、テーブルの縁に座り直した。僕は歯痒くなった。
「そんなこと言うなよ。諦めるなよ。行こう。何度でも」
「その度に苦労させられるのはおれらなんですけど……」
 僕はなぜかワクワクしていた。次は出来そうな気がした。もし失敗しても何度でもやり直せると思ったからかも知れない。それはまるでゲームのリセットボタンのように。
「もっと計画的に行こう」
 そう言って二人を抱えてテーブルに戻して座らせた。
 それから僕らはスケジュールと地図を書いた。準備をする時間はたくさんあった。だって今日は何度でもやってくるのだから。ノートに書いて、眠りから目覚めるとキノとキコが僕の記憶をすぐに蘇らせる。
「起きろよ、臆病者のいい人」
「あんた、やっぱり意気地なしね」
「うるさい!」
 そんな繰り返しで朝が始まる。そしてまた時樹の子から聞く情報や外に出て観察をしてノートに取る。だんだんと記憶の戻りも早くなってきた。
「いい人はこういう単純作業に向いてるなあ」
 キノがビッチリと書かれたノートをめくりながら言った。
「だからこのループワールドにはぴったりね。派手さの無い生真面目なキャラはね」
 キコが言った。
「まあね」
 二人の嫌味にも慣れてきた。むしろこのやりとりが楽しいくらいだった。
 そんな風に繰り返す日々は続き、いよいよ準備が整った。

 スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。そのままぼやけた視界のまま、僕は帽子とマスクを取る。さあ出発だ。

 時計を見る。まだ朝の8時だ。時間はたっぷりある。枝に登る。見渡した。時樹の木が枝を張り巡らせた世界。それでも朝陽に輝く朝は美しい。遠くで電車が走る。車窓に朝日が反射する。黙々と電車を走らせる運転手。この街は封鎖され、線路は途中で途切れている。その手前で電車は逆方向へ戻る。一体誰を運んで何処へ行くのだろうか。
 僕らは調べたルートを進む。隣の枝に移りたい時はキノとキコに先に行ってもらいロープを張ってもらう。そうやって真っ直ぐに月へ向かい進む。

 見晴らしのいい場所で立ち止まる。昼食を食べる。前の日に用意したおにぎりだ。キコはツノを磨いて、キノは月の方を向いてノートの確認をしていた。
「ねえ、どうしてこのおにぎりやノートは時間を戻さないのに、人間の記憶だけが戻されるの?」
「さあね。でも多分、時樹の木にとって必要なのは人間の時間だけなんじゃない」
 キノは僕に背を向けたまま答えた。
「でも、時樹の木も変だよなあ。人間の時間を奪うくせに、24時には人間をベッドに寝かせたり時計を戻したり、しかも使った食材なんかも元どおりに届けて。何の為なんだろう?」
 僕はずっと疑問だった。まるで僕らは飼われた家畜のようだ。
「おれら時樹の子にはわからないよ。本当にわからないことだらけ。だから、月に絡んでいる木を切るだけで上手くいけばいいけど……」
 キノが珍しく弱気なことを言った。僕はキノの背中を軽く叩いた。
「まあ、それでもやるしかないだろう」

「もう行きましょう」
 キコが言った。僕は立ち上がる。
「そうだね。今日という時間はそんなにない」
 キコはツノをひと撫でして言う。
「そう、いい人はまた昨日に戻って、ただのいい人に戻って」
 キノが笑って言う。
「そしておれらはそんないい人をまたベッドに戻すために死にそうになりながら働かされる」
 僕も笑った
「ははは! そうだね。その時はまたよろしくね」

 そこからは休むことなく先へ進んだ。でも辿り着かない。おかしい。あれだけ調べたのに。
「なんでだろう? ここから月まで一本道のはずなのに」
 僕は少し苛立った。
「まあ、しょうがないわよ。落ち着いて」
 キコが隣で言った。少し先にキノが黙って歩き続けている。

 僕はノートを見返した。地図は間違っていない。そのはずなのに、見返すと一度書いて消した跡があった。大事な場所だ。
「どうして?」
僕が叫ぶと先に進んでいたキノがビクッと身体を震わせた。
「キノ! もしかして」
 キノが振り返る。
「ごめん、…… おれがやった」
「おい、ふざけないでくれよ!」
 僕はキノに走り寄った。そして身体を掴んだ。慌ててキコが走り寄ってきた。
「ちょっと待って。ねえ、お兄ちゃんなんで?」
「実は…… 時樹の人にバレたんだ」
「だからって。ここまで頑張ってきたのよ」
「キコを枯らせるって言ったんだ。ごめんよ、でもキコがもしいなくなったら、おれ……」
 僕はキノから手を離した。
「お兄ちゃんのバカ! わたしがどうなるかよりもこの世界を変えなきゃ。お兄ちゃんが言ったんでしょ」
 キコがキノの肩を叩いた。
「ごめん」
 キノはうつむいた。
 その時、急に枝が大きく揺れた。僕は倒れ込んだ。キコも倒れた。キノは足を取られ枝から滑り落ちてしまったが、ギリギリのところで細く伸びた枝先を掴んだ。まずい、今にも下に落ちそうだ。僕は手を伸ばしキノの手を握った。胞子がたくさん舞い始めた。僕らの周りだけを取り囲むように時樹の花が咲き始めた。キノを掴んだ左腕の時計が目に入る。まだ20時なのに……

「なんでだよ!」
 僕が叫ぶとキコが答えた。
「時樹の人の仕業よ」
 枝がたくさんの蛇のように蠢く。絡まったビルが軋む。下に広がるのは深い闇。キノの細い腕を離さないよう力を入れる。後ろでキコが僕の身体を支える。
「お願い落ちないで。この高さじゃお兄ちゃんでも無理。離さないで」
「わかってる」
 ぼくは耐えた。でも意識が遠くなる。もう一度枝が大きく揺らぐ。一瞬で身体が軽くなって宙に浮いてしまった。キコを残し、僕とキノは落ちた。

 キコの叫び声が耳にループしてる。スローモーションのようにキコが悲しそうな顔で僕らを見ている。その顔はどんどん小さくなってゆく。僕はキノをたぐり寄せ抱きしめた。僕らは枝にぶつかりながら落ちていった。細い根が絡まった地面に叩きつけられる。激しい音がした。耳鳴りが響く。その奥でキノが僕を呼ぶ声が聞こえた。
 途切れ途切れの懐中電灯の灯で周りがぼんやり見えた。誰かいる。人間だ。皆寝転んでいる。なんでこんなとこにいるの? いや、違う。みんな死んでいる。沢山の死体が枝の下に並んでいた。なんで。寒気がした。目蓋が落ちる。僕は意識を失った。

 スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。身体が痛い。動けない。隣にキノが寝ている。その横でキコが心配そうに見ている。

「大丈夫?」
「…… ああ」
「あのね、お兄ちゃんが…… 動かないの」
 僕は身体を少し起こし、キノを揺さぶった。少し唸るだけでキノはそれ以上何も出来ないようだった。
 キコから聞いた。あの後、キノは自分のツノを一つ取って僕の口に入れた。彼らのツノは命の一部で、僕の無くなりそうな命を繋いだらしい。キコが下まで探しに降りてきた時にはもうキノは朦朧としていたようだ。そして24時になるとキノとキコは身体を勝手に動かされながらも僕をここまで運んできてくれた。部屋に着いたところでキノはもう動けなくなった。
「お兄ちゃんはあなたに謝りたかったんだと思うの。だから自分の命を」

 僕は起き上がる。
「ごめん、何も出来ないよ。僕にはもう」
 キコが泣いている。
「ごめんなさい。でもお兄ちゃんを助けたいの、お願い」
「勘弁してくれ、僕だって死にそうなんだ。出て行ってくれ。散々だよ、もう」
「そんなこと言わないで。あなたが選んだんでしょう?」
 僕は苛立った。
「なんだよ、結局、時樹の人には筒抜けだったんだろう? しかもなんだよ、たくさんの人間がおまえたちのせいで死んでいるじゃないか! ループするだけじゃなかったのか! 死ぬなんて聞いてない。僕だって死にたくはないんだ」
「でも、あなたはまだ死んでない。お兄ちゃんが助けたのよ」
「うるさい、出て行ってくれ!」
 僕は壁を叩いた。キコは泣きながら言った。
「あのね。お兄ちゃんはあなたをずっと見ていて言ったの。『この人は何も出来ない人かもしれないけど、このままじゃいけないと思っている。それがおれらと同じなんだ。だからおれはそこに賭けてみてもいいかと思ってる』って」
 僕は眠っているキノを見た。折れたツノが痛々しかった。
「だからなんだよ。このままじゃいけないとずっと思ってるよ。でも結局何もできないんだよ僕は」
 キコは黙ったまま泣いていた。
「なあ」
 キコは答えない。
「わかった、じゃあ僕が出て行くよ」
 身体が痛い。でも、無理やり立ち上がった。いつもこうだ。何も変えられない。

 僕は外に出た。もうどうでもいい。ただ何も考えずにいた昨日に戻りたかった。
 胞子を吸い込んだ。意識がボーっとしてくる。これでいい。もう何も考えなくて。どうせ明日なんか来ないんだ。

「ほーうほう、いい人がどーでもいい人になったとな。あっぱれあっぱれ、残念賞!」
 じいちゃんが笑っていた。
「ほっといてくれ」
 ふむ、と言ってじいちゃんがふわりと僕の前に降りてきた。
「変える、と言うものは難しいもんじゃのう」
「もういいんだ。こんな出口のない迷路みたいな世界から抜け出すなんて……」
 僕はマンションの入り口の階段に座った。じいちゃんも隣に座った。
「はて? この世界に入ってきたのはあんたの方じゃないのか」
「違う。僕が選んだんじゃない。巻き込まれたんだ」
「ほう、そうか。だがあんたはもうここにいる。どうであれ、ここから選ぶのはあんただ」
「よくわかんないよ」
「あのちっちゃいのはあんたを選んだ。そして時間をあんたに分けた。悔いはなかろう。だが借りたものは返すのが筋じゃ。まだあんたには時間があるじゃろ。取り返せる明日という時間が」
「どうやって? 24時までにたどり着くなんて無理なんだ! また時樹の人ってやつに邪魔される」
 僕は見上げた。あたり一面に時樹の木が張り巡らされている。
「ふーむふむ。確かにあんたの言う通り、ここは迷路じゃ。だけど出口があるかないかは知らん。というか出口はないんじゃろうな。だとしたら入ってきたところだけが出口なんじゃないのかのう?」
「それってどういう意味なの?」
 じいちゃんの方を見た。でも、そこにじいちゃんの姿はもうなかった。

 僕はマンションに戻った。階段を登る途中、頭にじいちゃんの言葉がループした。
「入り口と出口は一緒」
 何かが引っかかる。あと少しでわかりそうなのに。僕の入り口って? この世界の入り口って? 
 扉を開けるとキコがキノを背中に抱えていた。キコは涙を溜めた目で言った。
「ごめんなさい。わたしたちのせいよね。出て行くね」
 僕は胸が痛くなった。
「どうするんだよ? ここから出て行って」
「わからない。でも24時になればまた新しい時樹の子が生まれてここに来ると思うわ。
それでまた繰り返しの今日が始まるの」
 僕はハッとした。また今日が始まる……24時に。
「ちょっと待ってくれキコ」
 キコを呼び止めた。キコが振り返る。
「何?」
「あの…… 悪かった、ごめん。でも、もう少しだけ待って欲しい。君たちも助けられるかもしれない」
「どうやって?」 「24時になったら、もう一度始めるんだ」
「そんなの無理よ。わたしたちも操られちゃうし、あなたも眠ってしまうわ」
「でもそれしかない。ここには出口はないんだ。だから入り口から出る」
 キコは黙って僕を見つめていた。僕はキコに微笑んだ。

 僕は目一杯お湯をはった風呂の前に立った。隣にはリュック。その中にキノとキコが入っている。
「ちょっと窮屈なんですけど」
「まあ、これで兄妹喧嘩もできないだろう? 仲良し兄妹さん」
 キコが苦笑いした。その隣でキノが小さく頷いたように見えた。
「そのボンベ、何処から持ってきたの?」
 キコがバスタブの横に置かれたボンベを顎で差す。
「スキューバ好きのお隣さんからさ」
「ほんと、うまくいくかな」
 キコは心配そうだ。
「大丈夫。いけるさ。さあ、始めるぞ」

 24時のアラームが鳴る。部屋に胞子が入ってくる。だけど外ほどじゃない。僕はお湯の中に頭から足まで身体全部を沈めた。そしてボンベと繋がれたホースを口に入れる。バスタブの中から水面を見上げる。胞子はお湯の上で波紋を描き弾かれては飛んでいった。胞子は水に入れない。最初に川で見た通りだった。やがて30分ほどすると舞っていた胞子が消えた。
 僕はお湯から出た。キノとキコは無表情に鞄に入っている。彼らも今は意識がない状態になっている。僕はすぐに身支度して外に出た。そして駆け足で枝を登る。
 随分慣れたのか、道も迷うことなく進める。真夜中はまた別世界だった。枝はほのかに青く輝き、脈打つ様に躍動している。枝の所々では新しい枝が作られ伸びてゆく。ビルに絡まり窓の隙間に潜り込み街に広がってゆく。咲き終わった時樹の花は丸い実となり、やがて割れて中から新しい時樹の子を解き放つ。その小さな時樹の子は誰かの家を目指し枝の上をぎこちなく歩いてゆく。時々、キコ達ぐらいの時樹の子ともすれ違う。知らない誰かを抱えて運んでいる。僕以外にも外へ出た人がいたんだと知る。でも今はそれを考えてる時じゃない。キコはリュックの中でバタバタ動いている。操られて動きたいんだろう。キノはほとんど動かない。キノはもうそんなにもたないのかもしれない。僕の身体の痛みは無くなっている。キノのおかげだろうか。あんな高いところから落ちたのに。ごめんなキノ、そしてありがとう。僕は心で囁いた。

 僕は進んだ。暗い夜空に輝く光が舞っている。まるで蛍火のようだ。どんどん増えてゆく。すごい量の光の粒。それは僕らの街の至る所から吹き出しては舞い上がる。そして月へ吸い込まれるように飛んでゆく。そうか、これがきっと僕らの時間なんだ。月は光を受け入れてより輝きを増す。膨らもうと震えている。だけど、それをさせまいと枝がより締め上げているようだった。
 時樹の木はみんなの時間を戻すのに大忙しだ。操られた時樹の子たちは宿主の身体を運んだり、時計の日付を元に戻したりしている。僕に構っている暇なんかない。
 僕はノートを見る。さっき書き直した。それを確認しながら進む。もう迷わない。

 そして僕はやって来た。月へ辿り着く最後の一本の枝の上に。ノコギリを構える。
「さあ、キコやるよ。キノ、君がくれた時間を返すよ」

 その時、目の前で枝が膨れ上がる。また時樹の花? まさか? それは鹿のようなツノが生えた大きな人型のものに姿を変えた。
「何をしている人間よ」
 その声は落ち着いて優しく、だけどとても怖かった。

「お前が時樹の人か…… 僕の、僕らの時間を返してもらう!」
「どうするのだ? お前が望む明日に何があるのだ?」
「僕には会いたい人がいるんだ!」
「そうか、だがお前はわかっているんだろう? その人はもう、お前のことは愛していないことを」
「そんなことない、約束したんだ」
「よく自分を騙せるな。思い出せ。彼女は何故連絡をくれない。最後に大事な話があるから、と言われたんだろう」

 記憶が蘇る。彼女は仕事が変わってから離れた街に暮らし始めた。電話しても喧嘩ばかり。でもやがてそれさえも無くなった。連絡も無くなって、やっと電話がきた時には大事な話があると言っていた。今すればいいと僕は言った。でも彼女は会ってから、と頑なだった。僕は怖かった。だから逃げていた。そうだ、僕が明日から逃げていたんだ。

「どうする? お前が望むような明日は来ない。望んでいない明日に行く方がいいのか? それよりも、慣れ親しんだ、お前の好きな波風のない穏やかな今日の方がいいんじゃないのか?」

 ずっと悩んでいた。彼女の事で。でもそれだけじゃない、仕事のことも将来のことも全部。
だったらそんな未来を考えないで済む繰り返すだけの今日だけの方がいいんじゃないのか。僕は窮屈な毎日の中でそう思うようになっていた。

 どこからかキコの声が聞こえてきた。
「ここまでやってくれてありがとう。あなたの選ぶものをわたしたちは応援するわ」
 キノがささやく声も聞こえてきた。
「あんたはほんとにいい人だよ。あんたが選びたい方を選びなよ」

 僕は時樹の人を見た。真っ直ぐに。
「なぜ、僕たちの時間を奪う?」
「それなら私も聞きたい。なぜお前たち人間はここで沢山のものたちの命を、つまり時間を奪う。それと同じだ。理由など無い。理由など知らない。ただ神より与えられた生きるための定めなのだろう。私たち時樹の木も、お前たち人間も」

 時樹の人の後ろの空には白い朝日が差し始めた。僕は振り返った。果てしなく高い場所にいた。どこまでも見渡せた。地平線の先まで時樹の木は広がっていた。この街だけじゃない。彼女がいる街もきっと。そう、この世界中の全てが時樹の木に覆い尽くされている。もう僕らが知っている世界は無くなってしまった。だとしても……
 僕はノコギリを振り上げた。
「たとえ、明日が望まない明日だとしても、傷つき、苦しくても、僕は明日へ行く。誰かに与えられるものじゃなく、自分が選んだ時間を生きたいんだ」
「やめろ、私を切ってもまた新しい時樹の人がやってくるだけだ」
「それでもいい。また新しい明日を見つけてやる」
 キノとキコの叫び声が頭の中で響いた。
「いけー!」

「うおー!」
 僕はノコギリを振り下ろす。時樹の人が雄叫びをあげる。頭が開き、大きな時樹の花になった。そしてそれは爆発するようにたくさんの胞子を矢のように撒き散らした。僕はそれを浴びながらもノコギリを振った。
 マスクも帽子も胞子で飛ばされた。意識も遠くなる。それでも振り続けた。枝から時樹の木の深い青の樹液がほとばしる。
「なぜ、お前には効かない! なぜだ、なぜだあ!」
 僕の頭からうっすらと輝くツノの幻影が生えていた。それは僕の身体を包み、胞子の矢から僕を守ってくれていた。時樹の人が叫ぶ。
「そうか! 時樹の子の仕業か!」
 僕の身体の中にいるキノの命のカケラが僕を助けてくれている。僕は一心不乱にノコギリを振り続ける。目の前は朝の白と黄色い胞子と青い樹液で全てが混沌とした色になった。時樹の人の泣き声がこだまする。僕はそれに染まる。そして、僕はその場に倒れた。

 軋む音が響いている。消えそうな意識の中で周りを見渡した。時樹の人はもう動かない。街中の枝は激しく震え、ビルは揺れ動いていた。頭の中でキノの声が聞こえた。
「ありがとう。やっぱりあんたはいい人だった」
「いや、キノとキコのお陰だよ。さあ、帰ろう」
 少しの沈黙の後、キノが答えた。
「…… おれは帰れない」
「何でだよ?」
「時樹の木が暴れ出しそうなんだ。誰かが新しい時樹の人になって止めなきゃ」
「そんなの聞いてないよ」
「また変な奴がなるよりいいだろう? だから…… キコの事、たのむよ」
 街の至る所から叫び声が聞こえた。それが時樹の子たちなのか人間なのかは分からなかった。キノは落ち着いた優しい声で続けた。
「さあ、もう時間が無い。ここから出しておくれよ」
 僕は上半身を起こし、リュックを目の前に置いた。キコは静かに眠っていた。キノは目を閉じたまま少し微笑んで見えた。僕はキノをリュックからそっと出して抱きしめた。
「ありがとう、キノ。本当にありがとう」
 涙が止めどなく溢れた。キノの口から声が響いた。
「やっぱり、あんたは最高にいい人だな」
 その言葉を最後に、僕は意識を失った。

 スマホの目覚ましが鳴る。僕は目を開けてアラームを止める。ぼやけた視界のまま、スマホを開こうとして…… やめた。

 

 屋上に出た。いつもの朝だ。見上げた先に枝が絡まった月が浮かんでいる。その月はちょっとだけふくらみを増したような気がした。隣にキコがいた。
「うまくいったのかな?」
「悪くはなかったんじゃない」
 そう言ってキコは僕に優しく、すこし寂しげに微笑んだ。

 周りを見渡した。屋上やベランダから僕らと同じように月を見上げている人たちがいた。
そうか、僕らだけじゃ無い。みんな戦っていたんだ。それぞれの明日の為に。

「ねえ、お願いがあるんだ」
 僕はノートのページをちぎり、メッセージを書いた。
「これをあの人のところに届けてくれる? 時樹の子なら遠い街でも出来るだろう?」
「いいわよ」
 キコはそう答えると折りたたんだページを受け取った。
「なんて書いたの?」
「ずっと待っているよ。って書いた」
「わかった、届けてくるね」
 キコが歩き出した。
「待って!」
 僕はキコを呼び止めた。

「どうしたの?」
 キコが不思議そうに聞いた。
「やっぱりやめた。僕が行くよ」
「はあ、本気?」
「本気さ」
 キコは肩をすくめて言った。
「そう。だったら心配だから私も行くわ」
「おいおい、まだ頼りないのかよ! それなりにヒーローみたいな事したと思うんだけどな」
 それを聞いてキコは吹き出した。僕も笑った。
「まあ、いいや。でも、ありがとう。一緒に行こう、キコ」
 キコははにかんで頷いた。

 僕はキコの手をとって、月に絡まる木を見上げて呼び掛ける。

 さあ、新しい今日が始まるよ。キノ。